大熊ワタル気まぐれ日記


2008年06月22日(日)・ピースミュージックフェスタ(上野水上音楽堂)

 慰霊の日の前日に、会場が取れたことで、すでに成功が予感されていたが、悪天にもめげず、なかなかの盛況・盛り上がりで、最後まで締まった、よいイベントだったと思う。
 沖縄ならではのサルサ・バンド、カチンバは、今回4人編成という縮小版ながら、期待を上回るパフォーマンス。思わず直々にCD購入。カチンバ最高!
 照屋政雄さんも、いつものひょうきんさではなく、ストレート&シリアスなMCで、襟が正される思いでしたが、歌のテンション・自由度はさすが。11月に東京でサポートすることになっていて、楽しみ。
 おなじみ寿のナビィちゃんからはショッキングな話が。旦那さんが1月に倒れて、その後、2度も危篤になったとのこと。なんとか持ちこたえて、今はリハビリ中だが、とても大変そうだ。具合が悪い、というところまでは、知っていたけど、そんなことになっていたとは、不明を恥じるばかり。彼とは、ナビィちゃんの旦那さんになるずっと前から、知り合いだった。とても男っぷりのよい、熱くて剛毅な編集者だ。復活を待つ!
 フェスの話に戻ると、寿や渋さなど、人気バンドの時間帯は、自分の出番の直前で、残念ながら、集中のためパス。見るのにもパワーいるからね。で、自分は、去年の辺野古に続き、久々ソウル・フラワー・ユニオンで参加した。ユニオンは辺野古を別として、実質8年ぶりくらいだが、何度もやった曲は体が覚えているようだ。
 「平和に生きる権利」。このバージョンではベストパフォーマンスだったかな。
 強い雨の中、1300人近い集客は、素晴らしいのひと言。

[link:44] 2008年06月25日(水) 15:56


2008年06月21日(土)久々にクストリッツァ(吉祥寺バウスシアター)

 エミール・クストリッツア&ノー・スモーキング・オーケストラ(NSO)来日記念のイベント、クストリッツァ・ナイトでのオールナイト上映前に、松山晋也、関口義人の両氏とともにトーク・イベントに出演した。
 実は映画の音は別として、CDなどでのNSOには、どうもピンとこない。ノリ、とくにドラムがドンくさい(伸びしろはあるだろうけど)。
やはり、自分には、NSOのバックグラウンドでもある、フォークミュージックの方に関心があるということか。とはいえ、トータルに見てクストリッツァは、やはり気になる人物ではある。

 トークでは、コソボ問題やNTAO空爆に触れようと思ったが、あまり突っ込めず。
 最近のコソボ独立関連の報道で、クストリッツァも一瞬TVに映っていて、あれっと思ったのだが、セルビア側の、コソボ独立反対運動の旗頭のようだ。ビョークの「デクレア・インディペンダンス」なんか聞かせたらぶち切れるかも。
 (最近読んだネグリの「未来派左翼」でも、コソボ問題に関連してクストリッツァが旧友として言及されていた。ところで、この本で、ネグリの「戦争論/非暴力平和論への批判」が目に付いた。日本の反戦・非戦論からは反論もあるのでは…)

 関口さん曰く、NSOは、実は外国向きのバンドで、セルビアでは、その英語表記が顰蹙を買う一方、前身バンドZabranjeno Pusenje(同じく「禁煙」の意味)が、袂を分かった創立メンバーたちにより存続し、音楽的洗練度ではNSOの比でないにも関わらず、現地では断然支持を集めているとのこと。
 家がムスリム系だったのに、最近セルビア正教に改宗し、ムスリム系の人々から反感を買ったり、何かとお騒がせなクストリッツァ。NSOのオープニング曲が、仰々しい荘厳な曲調(国歌?)だったり、次回公開作のポスタースチールには、セルビア国旗が振りかざされていたりと、今のところはセルビア・ナショナリズムがヒートアップの様子。(旧ユーゴ解体に伴う痛み・怒りの転写? たしかにNATOや米はひどかった)
 ともあれ、本人のHP、結構な情報量でなかなかのもの。主要な発言が英語でもアップされていて読み応えあり。ところで、最近は田舎の山中に「クストリッツァ村」(俺のチネチッタ?)なるものを開設したそうだ。金が唸ってるんだな〜。
http://www.kustu.com/w2/en:start

[link:43] 2008年06月25日(水) 15:57


2007年12月06日(木)市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた

以下、planB通信12月号の連載コラムに書いたものです。自主法政祭(11月22日)に出演した際のレポート。

「当世音楽解体新書 第22回」
市ヶ谷掃苔記〜なき学館のエコーが聞こえた

 法政大学といえば、少し前まで「学館」(自主管理やオープンなイベントで知られた学生会館)を即座にイメージしたものだ。2004年に学館が解体されてからは、もう法政にも縁がないだろうと思っていたが、この秋にまた「自主法政祭」のコンサート出演依頼があり、3年ぶりに市ヶ谷で演奏してきた。
 前回のステージは、まさに学館のクロージング・パーティーだった。簡略に振り返ると、2003年、04年とボヤが続発し、消防署の査察・警告もあって、夏ごろには学校当局が建て替えに向け早期の閉鎖を決定。学生たちは、その流れをひっくり返すことはできなかったが、11月の学祭オールナイト・ライブは館内で決行。僕のバンドがゲストバンドに呼ばれ、学館に最後の別れを告げる演奏をしたのだった。
 学館は、74年のオープン当初から学生の実力入館による誇り高い自治空間だったが、30年が経ち、吸い殻の不始末や、空き部屋のコンセントに積もったホコリから失火するような、違う意味での危険な施設になってしまった。
 当局も、コントロールのきかない学館は、邪魔だったのだろう。04年夏の閉鎖決定後、即座に新施設のプランが発表されたが、あまり手際がよいので、傍目には「不審火騒ぎ」自体に対し不審の念が湧くくらいだった。
(くわしくは拙文「コンクリートは解体できても歌の在りかは消せはしない」=<音の力>ストリート占拠編・所収=参照)
 さて今回の話に戻ろう。例年の暖冬とは違い、真冬のような風で、野外ステージは、冗談でなく寒かった。 そして会場は、学館のかわりに建てられた新施設の脇。 また楽屋はまさにその新施設の一室。学館の最期に付き合った僕としては、ちょっと微妙だ。
 救いは、スタッフの若い学生達が、てきぱきと、よく動いてくれたことだ。「自主法政祭」とあるように、音響も照明も、裏方もすべて学生が自ら担当するのが学館の流儀だったが、そのスタイルはしっかり継承されていた。ナマの学館を体験した世代は、今の4年生で最後だが、さらに若い世代も含め、彼女・彼らなりに、今はなき学館や、そのあり方を正面から受け止めているようだった。
 もちろん、あの独特のホールはもう存在しないし、変に神話化してもしょうがない。しかし一般的には、学館だの、学生自治だの、どこへやら、という流れなのだろう。
 だからこそ、昔話としてではなく、今後のためにも学館の記憶を絶やしては、もったいない。お仕着せではない、オルタナティブな公共空間、自律的な場は、必要でありながら、つねに不足なのであり(なぜなら市場原理からはずれているから)、僕らはその種の不足には我慢すべきではないのだ。過去にしがみつくのではなく、あたらしい風に吹かれながらも、「変わり続ける同じもの」の歌に耳を澄ませていこう。

(*)あるブログに、法政の学館の設計者のインタビューが載っていた。かつて法政二部の学生新聞に掲載された記事の再録らしい。「『自由・自治・建築』という設計思想の基、都市をイメージした」などの興味深い裏話だ。「法政大学学生会館 設計者インタビュー」でヒットするはず。

[link:42] 2007年12月06日(木) 05:10


2007年11月01日(木)「mit Tuba」(瀬川深)書評

 この小説は、チューバ(とチューバ奏者)がテーマということで、少し話題になったように覚えている。が、個人的には、たまたま、インターネットで、この作品がシカラムータをひとつのモチーフにしている、という作者のコメントを目にして、驚くとともに関心をもった。
http://www.chikumashobo.co.jp/dazai/23/
 正直、どんな風にネタになっているのだろう?と一抹の警戒心もあった。しかし、ちょうど、ある音楽雑誌から、書評の依頼があったので読んでみると、それは杞憂で、気持ちのよい小説だった。
 この作品は、太宰賞の最終審査に残ったほかの三作とともに筑摩書房からの太宰賞ムックとして刊行されている。それによれば、二次審査を通過した作品だけで、何十作もあり、さらに最終審査を経た四作品のなかから、最終的にただ1作選ばれたのがこの作品だ。チューバという一風変わった楽器を通して音楽の楽しさを描いた、しかも、よりによってシカラムータやファンファーレ・チョカーリアをモチーフとして描かれたような作品が、そのような受賞作となったことに、率直に祝福の言葉を捧げたい。

<以下本文・ミュージックマガジン誌に書いた原稿に若干加筆したもの>

 音楽小説というくくり方なら、いろいろ作品があるだろう。しかし、楽器がテーマの小説はあまりないかもしれない。太宰治賞選者の小川洋子さんが「楽器小説の誕生」と評していたが、ギターやサックスなどではなく、チューバという「縁の下の力持ち」的な楽器であるところが面白い。
 そしてチューバを愛する主人公は、まだ20代の女性だ。チューバ娘!大きな図体のチューバと、うら若き女性という組み合わせもなかなか妙だ。彼女は、中学時代、部活のブラスバンドでさしたる理由もなく、チューバのパートを割り当てられる。賑やかな他のパートにくらべ、チューバは先輩と主人公の2人だけ。朴訥だが、音楽の深さに通じている先輩のキャラクターが印象的。そして高校のブラバンでは集団の人間関係に馴染めず退部。その後、会社勤めの傍ら、気の向くままに河原で風に吹かれながら練習する「インディペンダント」のチューバ吹きに。
 そもそも金管楽器は、軍楽など集団演奏を主目的に発達してきたと思われるが、集団には、個々の限られた力を共同作業で足し算以上のものにする可能性がある半面、とかく閉鎖的になったり、同質化圧力が辛かったりしがちだ。この小説でも、そのあたりが主要な背景として描かれている。
 主人公が、地下鉄で遭遇した「黒帽子のクラリネット男」に誘われ、我楽多楽團という一癖もふた癖もある連中の活動に加わるところから小説は動きだす。彼らのレパートリーや、メンバーの様子など、モデルとなったバンドを知る人は、ニヤニヤせずにおれないだろう(※)。
 しかし、この小説の強みというか美点は、そういった楽器や人物の描写だけでなく、何よりも音楽が弾けたり高揚する瞬間をよくつかまえていることだ。
 飛翔する旋律を、大地の黒い土となって支える、というチューバ魂や、バルカンバンドの演奏が爆発するくだりなど、何度読んでも胸が熱くなる。

(※)「黒帽子」以外にも「バイオリンのケータさん」「チャンチキ太鼓のバンマス」たちが、「不屈の民」や「四丁目」はたまた「鳥の歌(と思しきカタロニア民謡)」を演奏したりする。

[link:40] 2008年03月24日(月) 07:18


2007年11月01日(木)「アラン・ローマックス選集」書評

(本稿はplanB通信11月号の「当世音楽解体新書」に若干加筆したものです。)

 秋の夜長にふさわしく、今回は本の紹介を。
『アラン・ローマックス選集 アメリカン・ルーツ・ミュージックの探究1934-1997』(柿沼敏江訳・みすず書房)
 副題にあるように、アラン・ローマックスは、北米の民間音楽・民衆音楽を世に広めた第一人者だ。今まで、断片的に名前だけ聞こえていたローマックスの仕事の全容が一挙に目の前に! これはちょっとした事件だ!

 「アメリカのフォーク、ブルース、ジャズの発展に決定的な影響を及ぼした男」(帯コピー)

 「彼がいなかったとしたらブルースの爆発もR&Bの運動もなかっただろうし、ビートルズもローリング・ストーンズもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも生まれなかっただろう」(ブライアン・イーノ)

 これらは決して大げさな言葉とはいえない。彼の父、ジョン・ローマックスも民謡収集家だった。若干18歳で、父の民謡収集活動の助手としてアランのキャリアは始まった。そして、20歳そこそこで、議会図書館のアメリカ民謡資料室のディレクターに任命されたときは、すでに「膨大なフィールドワークをこなし」「よく訓練されたベテラン」だったという。
 ローマックス父子は、南部を中心に、作業歌、酒場の歌、無法者のバラッドなど、黒人の「世俗歌曲」や、植民者の末裔たちが伝える、ヨーロッパ由来の古いバラッドなどを記録・収集した。農園や、線路工事の現場、監獄など、実にさまざまな場所に、当時の重い録音機材を携えて出没した取材の様子が興味深い。
 アランはまた、左翼の活動家だったと伝えられるが、時代がルーズベルト大統領のニューディール時代だったことも大きいだろう。北米で、労働者や農民、失業者たちなどの社会主義運動がもっとも盛んだったころだ。一時期、ホワイトハウスの文化事業にも関与している。予算もとりやすかっただろう。
 当時のアメリカ社会が、それまでのヨーロッパ・コンプレックスから脱し、「アメリカらしさ」を探していた時期だったことも、ローマックスの仕事がアピールする後押しになったようだ。
 戦後になると、8年間という長期にわたって、ヨーロッパに渡り、またもや各地で民謡収集活動を展開した。この「国外脱出」の大きな理由は、冷戦時代とともに米国が迎えた、悪名高い「赤狩り」の季節を避けるためだった。しかし、その副産物は実り多いものとなった。
 当時のヨーロッパには、かつてアランが父の助手を始めた頃の北米同様、各地の民謡が、ほとんど外部に知られないまま手付かずで残っていた。スペインやイタリアでの民謡調査・収集など、彼の記録が、初の録音となったという例が山ほどあるようだ。
 また、50年代のイギリスでブームを迎えようとしていたスキッフル(アメリカのブルースの模倣から始まったバンド・ブーム。ブリティッシュ・ロックの伏線になった)のシーンにもかかわった。そもそもスキッフルの起爆剤となったのが、かつてローマックス父子が監獄で「発見」したブルース歌手・レッドベリーの曲のカバーだったわけで、その意味では、ブリティッシュ・ロックの産婆役をも果たしたと言えるかもしれない。
 さて、ローマックスは、歴史的な記録を膨大に収集しただけではなく、それを社会に紹介するラジオ番組やレコードのプロデューサーとしても手腕を発揮した。メディアとの関わりにおいても、マイノリティーの尊重や文化的平等といったローマックスのモットーが生かされた。そこには、後の「ワールドミュージック」のましな部分を先取りしているといえる。
 ウッディー・ガスリーのような、フォーク・シンガーを紹介し、ピート・シーガー(をはじめとするシーガー一家)ら、フォーク・ムーブメントの牽引役を果たしたことも大きな功績だ。言うまでもなく、北米から火がついたフォーク・リバイバルは、その後ヨーロッパはもちろん、日本など多くの国々を席巻した。
 ところで、ローマックスの青年時代、日本でも音楽学者たちにより、NHKの「民謡大観」の収集作業が行われている。もちろんローマックスとは、文脈も、視点も大きく異なっているが、同時代の民謡収集作業として比較検討するのも面白いかもしれない。
 また「戦後」では、学際的な視点で世界の民俗音楽を紹介した小泉文夫や、独自のスタンスで沖縄音楽を紹介した竹中労、そして大道芸などの忘れられた民衆芸能にスポットを当てた小沢昭一ら各氏も、比較対象として想定できるだろう。
 それにしても、ジャズ、ブルース、そしてそれらの鬼子たるロック…、これら北米発のポピュラー音楽の、そのどこを切っても、ローマックスのエコーが聞こえてくるということになる。
 これら北米由来の音楽は、日本においても、あって当たり前のような存在となって久しいが、ローマックスの仕事の全容が見えてきたことによって、アメリカ(あくまで北米ではあるが)音楽とは何か、また日本における北米音楽の受容のあり方について、あらたな側面も見えてくるのではないだろうか。
 それらが「ここ」において「自明」であるということ自体、植民地主義的(コロニアル)な出来事だと言えるのだが、ローマックスの仕事の再検討は、「われわれ」にとってのアメリカ音楽について、ポストコロニアル的な読解を促す起爆剤となりうるだろう。
 それはともかく、本書で、ローマックス自身の声に触れるだけでも興味は尽きない。また彼の残した貴重な記録音源は、現在、ラウンダーレコードから、続々と再リリース中で、そちらも要注目だ。

[link:41] 2007年11月01日(木) 10:01

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